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ドクターKの独りごと14.「赤とんぼ」の母

「赤とんぼ」について調べていくと驚くべきことがわかった。作詞の三木露風が幼少のとき離婚により生き別れとなった母「碧川かた(みどりかわかた)」さんのことである。

かたさんは離婚後、三木露風を祖父母に預け、露風の弟である乳飲み子を引き取り育てながら学校に通い、東京帝国大学病院の看護婦(師)となっている。彼女の人生はそこで終わらない。その後彼女は、日本初の婦人団体である新婦人協会に属し、女性の社会的自立や政治・社会への男女共同参画、婦人参政権運動などさまざまな女性解放運動に挺身したのだ。また、「足尾鉱毒事件」の救済活動や「米よこせ運動」「廃娼運動」「禁酒運動」「狂犬病撲滅運動」等多方面にわたって身を投じた。また、三木家とは家族ぐるみの付き合いをおこない、「かた」の実子の長男にあたる三木露風は碧川家からも尊重されていたようだ。実際、彼女の墓票には『赤とんぼの母 此処に眠る』と三木露風の染筆によって記されている。

 

明治・大正・昭和と3つの時代を奔走し、関東大震災、東京大空襲を生き抜き、戦前という世の中で女性解放や男女平等や命の重み,家族の大切さを説いた彼女の行動力。1962年に93歳(90歳との説もある)で永眠するまで時代に翻弄されることなく自らの「生」を生き抜いた彼女の生き方。ある意味凄みさえ感じる。

 

「山に野にしもべとなりて詩歌つくり あれし日本の人に尽くせよ」

 

詩人となった息子を励ます母「かた」が露風に送った手紙の一文である。くれぐれも健康に注意してとか、無理をしないで少しは体を休めなさい...ではない。日本を良くするために(仕事である歌をつくって)身を粉にして働きなさい!といったところだろうか…

 

あっぱれとしかいいようがない。

*  *  *

年老いた夫が助からない病気となって入院したとき「じいさんは若いころ好き勝手やって楽しんだんだ。しょうがないのさ!」嫌だ嫌だという夫に対して大声でそう言い放った奥様。しかしそうは言いながらも毎日病院に通っては朝食を介助し、昼は夫の傍で手弁当を食し、「じいさんはわがままだから看護婦さんの迷惑になったら申し訳ない」と、夕食の介助をしてから消灯前まであれこれと世話をしてから帰路についた。歯磨きから下の世話まで手伝い、苦しいと弱音を吐く夫をしかりつけながら、背中をさすったりしていた。やることがないときはベッドのわきに硬い丸椅子を置いて過ごしていた。腰を悪くするからと勧めたクッション付き背もたれ椅子には「申し訳ないから....」と1度も座ることはなかった。そんな日々がいつまでも続くのかと思っていた矢先、ご主人は2回目の正月を病院で迎える直前に亡くなった。ご臨終のときも表情を崩すことなく、気丈にも「ありがとうございました」と深々と頭を下げていた。そして最後、病院を出るときにはじめて人前で見せた大粒の涙…

 

あっぱれとしかいいようがない。

 

旭川リハビリテーション病院副院長

 

ドクターKの独りごと13.「赤とんぼ」三木露風

ゆうやけ こやけの あかとんぼ

おわれてみたのは いつのひか…

 

誰もが1度は歌ったことがあるであろう「あかとんぼ」。

 

この歌には、我々の心の奥深くを震わせる感動がある。生まれ故郷への慕情。親のぬくもり。愛する人との別れ。人それぞれ思いは違っても湧きおこる感情は同じであろう。

 

「赤とんぼ」の歌詞は三木露風(みき ろふう 1889-1964)という兵庫県出身の詩人が書いたもので、彼が北海道函館市の西に隣接する北斗市トラピスト修道院に講師として赴任していたときに詠った詩である。詞の主人公は三木露風自身で、トラピスト修道院で幼い頃を思い出して書いたものであることが自筆のメモに記されている。幼いころに実母と生き別れとなった露風は子守り奉公の姐やに育てられてた。夕日の中、竿の先に佇む赤とんぼをみて、露風は姐やに背負われながらみた赤とんぼの記憶とオーバーラップしたのだろう。

 

十五で姐(ねえ)やは嫁に行き お里のたよりも 絶えはてた

 

お嫁に行った姐やのことは自然と話題にならなくなり、大人たちはみんな忘れてしまっている。でも「私」はふと想い出してはたまらなく懐かしい気持ちになる。姐やは今どうしているのだろうか....姐やに対する思慕の情。姐やがいなくなった後、再び孤独となった嘆きの心情を竿の先にとまっている1匹の赤とんぼに重ねて詠ったのであろうことが推測される(家森長治郎,奈良教育大国文,5,4-11,1981)。幼くして生き別れとなった母親に対する露風の母恋、一緒に桑の実を摘んだやさしい姐やへの思慕は、1匹の赤とんぼに二重写しとなっている。

 

   *    *    *

 

全身状態が悪く、意識が朦朧とする中で繰り返し「おかあさん…」と呼び続けている高齢の患者さんがいた。彼のまぶたの裏に浮かぶおかあさんは一体だれを指すのだろう?大正生まれのその彼は、私が想像もつかないような幼少時代を過ごしてきたに違いない。布団の中でそっとその手を握ってみた。そしたらまもなく静かになって眠ってしまった。

 

赤とんぼ とまっているよ 竿の先

 

とんぼは変温動物で、秋の夕暮れでは飛び立つ前に日光を十分浴びて体温を上げるそうだ。そのため横腹と日光の角度を調節しやすい「先っぽ」にとまる必要があるとのこと。太陽の光を「明日に飛び立つ糧」にするのはとんぼも我々も同じである。

 

旭川リハビリテーション病院副院長

 

ベトナムの皆様へ

Chào mừng bạn đến Asahikawa! ようこそ 旭川へ!

 

ベトナムの皆様 ようこそ 旭川へ!

皆様を心から歓迎します。

Người dân Việt Nam Chào mừng bạn đến Asahikawa!

Tôi chân thành chào đón tất cả các bạn.

 

歓迎の気持ちを込めてStrings K(リハビリテーション病院)が皆さんにリモートで演奏いたします.どうぞ聞いてください。

Với một cảm giác chào đón

Strings K (Rehabilitation hosp) đã phát bài hát này từ xa. 

Xin hãy lắng nghe.

 

こちらから動画をご覧いただけます。

 

Strings K là một ban nhạc kèn đồng hoạt động ở Asahikawa. Bất kỳ ai đang làm việc tại Bệnh viện Shindo, Bệnh viện Phục hồi chức năng Asahikawa, Asahien, hoặc Taiyoen, có liên kết với nhóm, đều có thể tham gia.

ドクターKの独りごと12.「闘魂の人情」星野仙一 2

「魂を込めた生涯」という言葉がぴったりの男、星野仙一。現役から監督に至るまで打倒巨人のスタンスを貫き、その巨人を倒して自身初の日本一になった2013年(前回のブログ参照)。今日の話はそのちょうど10年前の2003年10月7日、甲子園球場、巨人対阪神最終戦のエピソードである。

 

この年で原監督は巨人監督の辞任が決まっていた。セリーグ優勝が決まっていた阪神。試合終了後、本来であれば六甲おろしで盛り上がるはずが、なぜか沸き起こる「原辰徳」コール。しかもタイガースファンで埋め尽くされたライトスタンドからである。辰徳コールはまもなく甲子園球場全体に広がった。ブルペンで不思議な表情で立ち尽くす原監督。そのとき、場内にウグイス嬢の声「読売ジャイアンツ・原監督に、阪神タイガース・星野監督から、花束が贈呈されます」。

 

「ご苦労様。くじけるなよ! これからだぞタツ!! 必ず帰って来るんだから!!!」

 

花束を受け取った原監督に、星野監督はそう話したそうだ。阪神ファンからの「HARA」コール。宿敵・星野からの花束贈呈。そして敵陣、甲子園球場で原監督の退任スピーチ。想定外の出来事に感極まり、涙腺が崩壊する原監督。阪神ファンで埋め尽くされた甲子園球場で大きな拍手と「原辰徳」コールを背にグラウンドから去る原監督。六甲おろしを封印し、レフトスタンドの巨人ファンの声援を優先する阪神ファン。阪神がセ・リーグ優勝したラストゲームであったにも関わらずだ。なんというシーンなのだろう!

 

原監督の無念を代弁したかのようなこのセレモニー。星野監督の計らいだったらしい。

「夢の続きを胸の中で温め、明日からも生きていく」

原監督はそう言ってグラウンドを去った。巨人ファンとかアンチ巨人とかは関係ない。見ている人が全員、原辰徳という人間を心から応援したくなった瞬間だった。

 

原が巨人の監督として再びグラウンドに立ち、日本一を争って、今度は楽天監督としてグラウンドに立った闘魂・星野と対戦した2013年日本シリーズの名勝負は、それから10年後のことである。

   *    *    *

どうして自分がこんな目に….理不尽な思いで心が折れそうになることはよくある。脳卒中で突然体が動かなくなった患者さんはみなそう思うに違いない。しかしどの患者さんも必ず病気を受けとめ前を向いて立ちあがる。なぜか? それは親や家族や兄弟、子供や友人をはじめ、医療スタッフ、介護スタッフ…患者さんを中心に実に多くのそして様々な人間が病気の快復を信じて心から関わるからだ。「患者さんが真ん中の医療」この言葉の意味はそういう意味である。

 

余談ではあるが2009年、中日の立浪が引退する最終試合。再び巨人の監督となった原監督はグラウンドからベンチに戻る立浪を包容してねぎらった。2015年のクライマックスシリーズ巨人阪神戦。ゲームセット後、その日で退任する阪神の和田監督をブルペンまで出向き、握手を求める原監督の姿。原監督はこれからもこうした行動は続けるのだろう…闘魂・星野の遺徳の顕彰と思いたい。(敬称略)

旭川リハビリテーション病院副院長 

ドクターKの独りごと11.「闘魂の涙」星野仙一

すごい試合だったらしい。残念ながらリアルタイムで見ることはできなかった。2013年11月3日。東北楽天ゴールデンイーグルス対読売ジャイアンツの日本シリーズ第7戦。

 

24勝無敗でシーズンを終えた楽天のエース田中。多くの道産子はマー君の大ファンだ。だから日ハム戦でマー君が登板の時にはどちらを応援したらよいのか困る。そんな我らのマー君は前日の日本シリーズ第6戦、渾身の160球完投ながらも巨人に負け、シーズン初黒星がついた。3勝3敗で今日が日本シリーズ天王山という11月3日。3対0楽天リードで迎えた9回。この回を抑えれば楽天初の日本一という大場面。星野監督は選手交代を告げた。「ピッチャー田中」。闘魂星野の顔が綻んだ。悲鳴にも似た場内の歓声。気を利かせたのだろう....実況は無言の30秒。観客席から鳴り響く大合唱「あと1つ」。

 

先頭打者は村田。3球目をセンター前に持っていくとロペスはライト前にヒット。巨人も最後まで必死に戦いぬいてくる。打者2人を抑えて2アウト3塁1塁。この年のオフにポスティングでのメジャー移籍を宣言していた田中。日本での雄姿はこれが最後なのか…あと1つ!勝利の瞬間まで厳しい表情を崩さなかった田中とは反対に、柔らかい眼差しの闘将星野は、だんだん涙をこらえた表情に変わっていった。最後の打者をアウトにした田中。感極まって泣きじゃくる楽天の選手。場内の大歓声。しかしそれとは対照的にマー君は、なんというか、妙に落ち着いた、柔らかくて、清々しい表情だった。そう…夏の甲子園決勝で負けが決まった、あの瞬間(とき)と同じように。

 

「前日に160球を投げた投手を次の日にも投げさせるのか?」試合のあと様々な意見が飛び交った。科学的には無茶な話らしい。でも忘れてはいないだろうか?マー君が夏の甲子園で連投に連投を重ねて投げぬいたことを。田中だけではない。甲子園で活躍する投手はきっと科学や常識ではひとくくりにできない何かをもっているのだろう。幼少から一貫して投手であった星野監督。俺以上の闘魂投手はいない。でもマー君に出会って認めたのではないか?こいつは俺を超えたはじめての人間だ、と。

*     *    *    *

医学は科学だ。膨大な臨床データや調査結果、すなわち科学的根拠をもとに診療を進めていく。決して個人的な経験や感覚に頼って治療をしているわけではない。しかし、医療現場ではそうした根拠が覆されることがある。絶対に無理だろうと考えていた病態が良くなることもある。ひとは「ひと」としてけっしてひとくくりにはできない。エビデンス(科学的根拠)通りにいかないことも当然ある。ひとは、過去のデータに則って生きているのではない。目の前の患者の未来を決めるのは過去のデータではなく紛れもない、患者自身だ。

*     *    *    *

星野は「監督に逆らえる選手がいないのがさびしい。選手交代された時に『大丈夫です。まだやれます』という気迫がある選手が欲しい」と語ったことがあるそうだ。マー君はこの試合、自ら志願したのだろうか?それとも監督に行けと言われたのだろうか?そんなことはどうでもいい…マウンドに立った田中の闘魂は十分すぎるほど星野監督に、そしてカメラの向こうの我々にも伝わったのだから。(敬称略)

旭川リハビリテーション病院副院長 

ドクターKの独りごと10. 「オフロードパス」

タックルされながら味方にボールを託すラグビーのプレーをオフロードパスというらしい。投げた球が相手にとられる危険が高いため、これまでの日本ラグビー界ではあまりプレーされていなかったようだ。2019年秋、悲願のワールドカップ8強入りを決め、日本ラグビーの歴史を変えたチームジャパン。その試合でオフロードパスは随所で見ることができた。圧巻は対スコットランド戦。7-7の同点でむかえた前半25分。捨て身の3連続オフロードパスで繋がれた楕円球は最後、プロップの稲垣選手の胸の中におさまった。そしてトライ、試合を決めた。プロップである彼が最後トライを決めたのも泣かせる。インタビューではプロになってからトライしたのは数回しかないという。実際、日本代表になってから30数試合、1度もトライはしていない。稲垣選手の名誉のために言っておくが、フォワードは仲間がトライするために相手を潰すという重要な役目があり、そういった意味ではノートライは献身の象徴ともいえるらしい。「代表に入って7年間で初めてトライしましたけど、慣れてないので両手でいきました」愚直なインタビューの答えにも泣かせられた。

 

オフロードパスを成功させるためには選手の高い運動能力と技術、そしてなにより仲間のサポートが必要だ。巨漢に猛烈にタックルされたら一瞬気を失うこともあるだろう。バランスを崩し、地面に倒れこむまでの刹那のなか、仲間を見つけ、片手で仲間にボールを託す。受け取る仲間も、ボールを受け取りやすい位置に寄り添っていることが重要であろう。稲垣選手は偶然そこにいたわけではないはずだ。

 

『仲間』辞書にはある物事を一緒になってする者、同じ種類に属するものと書いてある。同じ職場で仕事をする。同じクラスで勉強をする。たしかにそれは仲間であろう。一緒にいる時間が長ければ親しい仲間になった気にもなる。でも上述する「仲間」は同じ意味をもつ言葉としてとらえていいものだろうか?たとえ接点はなくても同じ目標に向かって同じ汗をかきながらがんばる。互いに尊重し合い、たたえ合う。お互い言葉ではない何かに結ばれている。ひとはそれを「絆」と呼ぶのだろう。

 

急性期病院から転院した患者さんは、なんとか助けようと頑張った前医の思いも含めて引き継ぐ。そして自分も「よろしくお願いします」の1行に様々な思いを込めて次の転院先へ紹介状を書く。同じ医師同士、病院は違ってもお互い「絆」を感じながら仕事をしていきたいと思う。新型コロナでコミュニケーションを取りにくい時世であるから猶更である。

 

また新しい1年が始まる。ウイルスとの闘いにまだ終わりは見えないが絶対に負けない。「仲間」と一緒だから。

旭川リハビリテーション病院副院長

2020年度 旭川リハビリテーション病院新入職員の皆様へ

今年度新規ご入職の皆様、遅くなりましたがご入職おめでとうございます。数ある職場のなかから当院をお選びいただきありがとうございます。本来であれば皆様の歓迎会で演奏予定だったStrings Kが皆様にメッセージを添えた1曲をリモート演奏でお届けします。何かと大変な時期ですが一緒に頑張りましょうね! 

こちらから動画をご覧いただけます。

 

Strings K代表 小山聡

 

 

ドクターKの独りごと9.「道」

「私はこれからも生き続けなければならない。生き続ける者はいつでも忙しい。いつでも用事に追われ続けるのだ」小説家・津島佑子の作品に「火の山」がある。戦中戦後の親子3代にわたる生と死を描いた長編小説だ。時代に翻弄され、自らの「道」を生きたとはけっして思えない多くの登場人物たち(この作品には実に多くの人物が登場する)。しかしその誰もが不平不満を言わず、自らの生を必死に歩むのだ。冒頭は主人公の1人である笛子の言葉である。彼女は度重なる不運にあいながらもそう言い放って何度も立ち上がるのだ。生き抜くためには目の前の不運に溺れている場合ではない....と。

 

「神様は私たちに成功して欲しいとは思ってはいない。ただ挑戦することを望んでいる」

マザーテレサは言う。そしてなにかに打ち負かされた時、立ち上がる勇気を持つこと。自らの無知を知り、生きるための知恵と力を身に着けること。今、目の前にあることを受け入れ、前に進むことだけを考える。誰かに批判されることを恐れずに、失敗することを恐れずに、今すべきことを行う。「この世には失敗もなければ偶然もない。すべての出来事は私たちに与えられた恵み、何かを学ぶ機会なのだ」キューブラー=ロス医師の言葉である。

 

人生の「道」は、「今」という瞬間の連続でできているのではないか?切れ目のないレールの上を転がっているのではなく、その瞬間の連続の積み重ねで構成されているようにも思う。その瞬間(点)が連続して、振り返った時に「線」になって見えるだけなのだ(『嫌われる勇気』より)。

僕の前に道はない

僕の後ろに道は出来る…

高村幸太郎の詩「道程」はそういうことを意味しているのだろう。

 

だから「今」を大事にして生きていこうと思う。「今」の積み重ねが人生の「線」となるのならば、今日が無駄な1日であるはずもない。

 

「人はみな、知らず知らずのうちに最良の人生を選択しながら生きている」放送作家・小山薫堂さんのお父様の言葉である。我々はきっと、数々の苦難の「点」を経て、振り返った時に最良の「線」=「道」すなわち「人生」を確認できるのだろう。最良の道を選択したというのは偶然にも良い道に転がったということではなく、選択すべき瞬間に「最善の努力」をした結果なのではないのだろうか。ならば迷うことなく「今」という「点」に全力を勤しんで生きてゆこうと思う。

「この道より我生かす道なし。この道を行く」

武者小路実篤のことばのように。

 

今年は未知のウイルスに翻弄された1年だった。そしてそれはしばらく続くのだろう。しかし意味のない「今」はない。「今」起きていることを受け入れ、「今」自分がすべきことを行いたい。地上の多くの人の努力によって未曾有の事態を必ず克服する道ができることを信じて。共に歩む仲間を信じて。

 

地上に初めから道があるのではない。歩く人が多くなると初めて道が出来る。(魯迅『故郷』より)

 

旭川リハビリテーション病院副院長

ドクターKの独りごと8.「七つの子」

先日、東京都の小池知事が「5つの小(こ)」と記したボードを掲げて注意点を喚起していた。会食時における新型コロナウイルス感染防止策の新たな呼びかけである。彼女はこういったスローガンを掲げるのが得意だな…なんて思いながら私は野口雨情作詞の「7つの子(こ)」のことを考えていた。

 

からす なぜ啼くの からすは やまに かわいい7つの子があるからよ…

 

私はこの歌を聴くと思うことがある。夕暮れ時の烏の鳴き声はなぜこんなにも切ないのか?そもそもこの詩に出てくるからすとは烏のことなのか?7つの子とは7羽の赤ちゃんのことなのか?そして、まあるい目をしたいい子とは…一体誰のことなのか?

 

これはあくまでも私の印象でしかないのだが....

「からす」は「かあさん」。「啼く」は「泣く」。「7つの子」は「7歳もしくは幼子」。「山の古巣」は「山の故郷(ふるさと)」。「かわいい目をしたいい子」は「野口雨情」本人のことではないだろうか?

 

諸事情により故郷においてきた我が子に会いたくて、でも会えなくて…せつなさのあまり泣いている母…そういう詩に聞こえるのだ。実際にはどうなのであろうか?野口雨情の経歴を調べてみると母親は彼が29歳のときに亡くなっている。しかし幼少時代、どのような生活だったのか詳細はわからなかった。細かな事実はともかくとして、私はこの詩を「離れ離れになってしまった我が幼子を思う母親の心情の詩」のように思う。あるいは、もしかしたら…更に飛躍した推測なのだが...自分は母親に見捨てられたのではない、理由があって離れ離れになったに違いない。母は自分のことを愛しく思ってくれているに違いないと、「離れた母を慕う子供の心情を詠った詩」のようにも聞こえる。なぜなら、最後の歌詞が、山の古巣へ行ってみててごらん かわいい目をした いい子だよ だからだ。海辺の街に引っ越したおかあ、山奥の古里にいる僕に会いに行ってみてください ぼくはかわいい目をしたいい子に育ってます!という解釈はどうだろうか?そう考えると、烏の鳴き声が「ぉかあ!ぉかあ!」と母を呼ぶ幼子(野口雨情?)の鳴き声(泣き声)にも聞こえてしまう。そして更には…「おかあ」とはいわゆる「母」のことなのか?もっと別な、例えば…どんな自分であろうともいつでも包容し慈しんでくれる「母性愛」のたとえではないだろうか?何かに苦しむ自分が母なる何者かに、神様・仏様・ご先祖様「こんな私をどうか祓い給え、守り給え…」と祈りを捧げている詩ではなかろうか?そして古巣とは単純に自分が生まれた古里ではなく… 想像するとキリがない。

*   *    *

病棟に、夜中に大声で泣き叫ぶ認知症の患者さんがいた。家に帰ると訴えているのだ。帰れるはずがない。彼女は脳卒中になって歩けないからだ。しかし、彼女は帰らなければならない。なぜなら家にはおなかをすかせた小さな子供たちが待っているからだ。彼女は、「子供たちを育てるために必死に生きてきたあの日」に帰らなければならないのだ。

 

朝、出勤前のゴミステーション。烏がゴミ袋をつついてちらかしていたことがあった。お前はお前で子育てに必死なのかい?…私は黙ってゴミを集めた。電信柱の上でそれを見ていた烏と目が合った。優しい目をしていた。

                             旭川リハビリテーション病院副院長

ドクターKの独りごと7. 「クナッパープッシュ」

かっこいいカラヤンと真逆の指揮者がいた。ハンス・クナッパープッシュ(愛称クナ)。今からちょうど100年前にドイツで活躍した人物である。拍手・喝采を嫌い、決して観客に向かってお辞儀はしなかった。そのかわりコンサートマスターの横に立って観客と一緒にオーケストラに拍手をする風変わりな人間だったらしい。

 

クナの演奏スタイルは極めてクセが強い。まず曲のテンポが遅いのだ。オケの団員からもうちょっと早くしてもらえませんかとよく言われたらしい。ただ遅いだけではない。常に緊張を強いられながらなおかつ遅いのだ。なるほどこれはきつい!でもその音楽は実に多くのファンがいるのも事実なのだ。

 

彼の奏でる演奏は...果たして音楽といっていいのだろうか?例えばブルックナーの交響曲第8番。喜びや怒り、憂いや安堵といった人間臭さが全く感じられないのだ。第1楽章から第4楽章まで通して聴くとゆうに1.5時間を越えてしまう。しかし飽きないのだ。なぜか?…疲れないからだ。聞く人間に余計な考えを強いない演奏なのだ。例えていうならば春、水色の空にさえずる雲雀。夏、黄金色の夕日にきらめくさざ波。秋、夜長に歌う虫のこえ。冬、パチンとはじけるの薪の音。四苦や八苦を超越し、ただ美しい音に身を委ねる…第4楽章が終わったらもう1度初めから聞いてみたいという気持ちにさえなる。人間臭くないというのはブルックナーという作曲者自身の特長でもある。しかしほかの指揮者の演奏ではその特長を出すのが難しい。聞いていて途中で飽きてしまう。でもクナの指揮だと飽きないのだ。ブルックナーの曲とクナの指揮の相性がいいといえばそれまでだが、実はブルックナーもかなり風変わりな人間で…それはいずれあらためて文にしたい。

*  *  *

医療従事者の仕事はとても人間臭く、それ故につらいことも多い。大きな問題にぶつかって身も心も疲れ果て、ストレスでボロボロになっても、それでもまだこの仕事を続けようと立ち上がれるのはなぜなのだろうか?それは金色燦爛たる美しさを放つ言葉を言われることがあるからだ。

「ありがとう…」

他の誰でもない、患者さんやその家族から言われるこの一言ほど我々に勇気を与え元気にさせてくれる「音」はない。

*  *  *

クナはワーグナーに陶酔し、バイロイト祝祭歌劇場にあるワーグナーの胸像前に1人座って時間を費やすのが好きだったそうだ。胸像のワーグナーとクナはいったいどんな話をしたのだろう?ドイツのバイロイト…仕事を退職したら是非訪れてみたい。

                            旭川リハビリテーション病院副院長

ドクターKの独りごと5.「毎日」岩瀬仁紀

かつて中日ドラゴンズに岩瀬仁紀という投手がいた。投げても数回しかもたないだろう…入団を反対されていたにもかかわらず当時の中日監督・星野は「俺は先発で使うとはいっていないぞ!」と、岩瀬の獲得を押したエピソードがある。実際、1999年の入団当初から続投(リリーフ)としてマウンドに立ち、2018年に引退するまでの19年間、先発で投げたのはたった1度だけである。しかし登板は1002回、407セーブ。これは驚異的な数値で、言うまでもなく日本プロ野球最高記録である。

*   *    *    *

これの何が凄いのか?それには以下のことを理解する必要がある。まずリリーフの意味だが、先発投手が何らかの理由で降板したあとに続投するピッチャーのことを指す。試合のどの場面で投げるかによって「中継ぎ」「抑え」「セットアッパー」など様々な名称がある。リリーフ投手はいつ登板が要求されるかわからない。結果的に登板しなかった試合でも、いつでも投げれるようにブルペンで肩の準備をしておく必要がある。あるかないかわからない出番のために「毎日」である。前日に飲みすぎて二日酔いで投げられないようでは困るのだ。更にリリーフに立つときは「1点も許されない」という緊張を強いられるシーンがほとんどである。一般的に打者を外野フライに仕留めれば投手は投げ勝ったといえよう。しかしリリーフは違う。外野フライでもランナーが三塁にいればタッチアップで1点取られるのだ。だからリリーフは打者を三振に仕留める力量が要求される。技術的にも精神的にもかなりの重圧を「毎日」受けているのだ。そうした「毎日」を岩瀬は19年間続けたのである。岩瀬の凄さを痛切に感じた試合がある。2007年、日本一の球団を決める日本ハム対中日ドラゴンズの日本シリーズ第5戦である。

 

第4戦まで中日は北海道日本ハムに3勝1敗とし、日本一に王手をかけていた。この試合絶対に負けられない日本ハムは中4日のダルビッシュをマウンドにあげ、背水の陣で戦いに挑んだ。試合は1対0の投手戦となった。エース・ダルビッシュは7イニングで11奪三振の驚異的なピッチング内容。ちなみに日本シリーズで1試合の最多奪三振は13(ダルビッシュ侑と元ダイエー・工藤公康)である。しかし…日本ハム打線は中日の先発、山井に完全に抑えられ、8回までファーボールも含めて1人の走者も出せない、いわゆる完全試合となっていた。日本シリーズで完全試合を成し遂げた投手はいない。そんな9回、なんと中日の落合監督は山井を岩瀬に代えたのだ!ざわめく場内、名古屋球場からは完全試合を求める山井コール。交代に戸惑う実況と解説。なぜ変えるのだ?山井投手の気持ち。落合監督の判断。そして…なにより岩瀬は、いったいどんな気持ちでマウンドにあがったのだろう…。我々道産子日ハム応援団にしてみれば、このまま山井投手なら最終回も無理だろう…リリーフは中日の守護神・岩瀬。とはいえ彼とて人間、このピッチャー交代は日本ハムにはチャンスかも?この試合に勝って、第6戦目からの札幌ドームに戻ってきてほしい!しかし我々の様々な憶測や思いをよそに、淡々とマウンドに上がった岩瀬は日ハム打線をあっさりと13球3人で仕留め、中日ドラゴンズを53年ぶりの日本一に導いた。後日知ったことだが、山井投手は5回あたりから指の豆が破れて皮1枚剥がれ、激痛のなか投げていたようである。血だらけになった指先をみて8回裏、落合監督が山井投手にどうする?と聞いたところ、山井は何の迷いもなく「岩瀬さんでお願いします」と答えたそうである。個人のタイトルよりもチームの勝利を最優先させた山井。チームの勝利を岩瀬に託す絆。さぞかし苦渋であったであろう落合監督の決断力。そしてなにより岩瀬の肝の据わった続投。野球のドラマはカメラの回っていないこんなところでも繰り広げられているのだ。

*   *    *    *

脳卒中はある日突然やってくる。動かなくなった腕、体重を支えられなくなった脚。でもまたいつかその腕で食事ができることを、またいつかその脚で歩けることを、私はあなたと共に信じたい。私は知っている。あなたが人目を忍んで「毎日」薄暗い夜明けにリハビリ歩行訓練していることを。その「毎日」が、いつか奇跡を生むことを。そして「奇跡」は努力の「軌跡」であることを。

 

余談ではあるが、岩瀬投手はお酒が飲めないらしい。毎日コンデイションを維持するには好都合かもしれないが、どうやって精神的ストレスを解消するのだろうか?そう思う私は、残念ながらまったくの凡人である。(敬称略)  

                            旭川リハビリテーション病院副院長

ドクターKの独りごと4.「レフトアローン」マル・ウオルドロン

マル・ウオルドロン。1957年から2年間、ジャズシンガーであるビリーホリデイの伴奏をしたことで有名なジャズピアニストだ。モールス信号のようにくり返す独特なメロデイ。控えめで哀愁漂うその旋律は多くの日本人の心を掴み、おそらく1970年代の日本ジャズ界隈で最も名の知れたピアニストの一人であろう。ビリ―ホリデイ作詞、マル・ウオルドロン作曲の「レフトアローン」は彼の代表作である。ビリーはこの曲を気に入り、ステージでもよく歌っていたそうだが、残念ながら彼女が歌った音源は存在しない。

 

ビリ―が病で逝った1960年、彼女を偲んで録音した哀悼曲「レフトアローン」。彼女以外にこの歌を歌える人はいないと思ったのだろう…マルは肉声の代わりにジャッキーマクリーン演奏のアルトサックスに歌わせたのだが、それがまたよかった。むせび泣くようなサックスの音色。マルは絶妙な間合いでサックスに寄り添うようにピアノを奏でている。出しゃばらず、一歩引いた立ち位置でジャッキーの魅力を引き出すことに徹している。そしてピアノアドリブでは…彼のピアノが泣いているのだ!こみ上げる嗚咽を抑え、冷静を保とうと必死にこらえているように聞こえるのはどうしてだろう?この歌詞は恋愛の歌だ。でも私にはそうは聞こえない。本当の歌詞はI am left alone:「(あなたが去って)私は一人ぼっち」なのだが、敢えてサックスが歌うことによってタイトルだけが前面に立ち、(She) left alone:「彼女は独りで去った」に聞こえてしまうのだ。

 

あのひとは1人で逝ってしまった

私はあなたにまだ何にも伝えていないのに

「ありがとう」の一言さえも…   (注:筆者脚色)

 

*   *    *    

リハビリの病院とはいえ、当院で天寿を全うする患者さんも多い。薄れていく意識のなかで患者は我々に何かを伝えようとすることがある。それは必ずしも苦しいとか辛いだけではない。患者の表情が柔らかく、目が澄んでいるからだ。明鏡止水の心境とはこういうことなのか?我々はそうした状況で、患者の視線から目をそらさずに、患者の心をしっかりと受け止めているだろうか?患者の握った手を振り放そうとしていないだろうか?「明日伝えよう…」では間に合わないことも往々にしてあるのだ。

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いろいろ調べると、日本以外でこの曲はあまり有名ではないらしい。ビリーを失った悲しみからマルを救ったのは「レフトアローン」に共感し、寄り添い慈しんだ我々日本人なのかもしれない。

                          旭川リハビリテーション病院副院長

ドクターKの独りごと 3.「醒めよ…」歳男・歳女アトラクション

もうだいぶ前の話ではあるが、旭川医師会の新年会に出席した。歳男・歳女アトラクションに参加するためだ。列になってバンカラの姿で闊歩したあと、全員で肩を組んで、最高齢のアトラクション団長を中心に「札幌農学校は蝦夷ヶ島」を歌い上げた。そのあと歳男・歳女の医師たちと一緒に妖怪体操を踊るという流れだ。人前で踊るなんて….そもそもこういうことは若い人がやるのでは?….直前までもんもんとした気持ちで挑んだ妖怪体操。しかし、いざ本番に挑むとなんと私は参加者のなかで最年少!おまけにみなさん笑顔笑顔!!更に踊りは完璧ではないですか!!!顔にメイクをしたり、理解困難な歌詞の意味まで教えてくださった先生もおられた。

 

楽しげに踊っている諸先輩先生をみて、恥ずかしいと気遅れしていた自分はなんて小さな人間なのだろうと、アトラクション後のレセプションは本当に恐縮な思いだった。参加者の中には1回りどころか2回りも、さらには3回りも年上の先生もおられた。 3回りも年上の諸先生方と比べると、現在旭川の要所におけるトップとしてご活躍されておられる諸先生方は正直いってまだ青さの残る若頭にも見え、そして自分自身はといえば…ほんとうに全くの「ガキ」であることを痛感した限りだった。そして一人前のつもりで、ともすれば上から目線で診療してきたこれまでの自分を本当に恥ずかしく感じた次第だった。

 

人生を12年単位で考えた。12年後、私は諸先輩と同様に、地域の医療を引っ張っていけているのだろうか?24年後、私は諸先輩と同様に、地に足が付いた職を全うできているのだろうか?そして36年後、私は諸先輩と同様に、皆の前で口上を読み上げることができるだろうか?自分の足でそこに立ち、大勢の後輩たちの前で胸を張り、大きな声と力強い眼差しで、後輩たちを叱咤激励することができるだろうか?そのために自分は今,何を思い何を考え何を学ぶ必要があるのだろうか?…その答えは教科書には決して書かれてはいない、唯一そこを生き抜きそして今ここで毅然と立っている人間からでしか学びとることしかできないことなのであろう。諸先輩の背中をみながらこの企画への参加、自分は大いに勉強になった、参加してよかったと心から思った次第なのである。

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入院・外来の患者さんのほとんどは私よりも年上である。1回りはおろか、2回3回り、それ以上も年上で、様々な経験を積んで生きてきた人生の先輩がたである。そんな患者さんを前にして、私はまさか尊大な態度でいやしないだろうか?椅子にふんぞり返って、さも偉そうな雰囲気ではないだろうか?「患者さんが真ん中の医療」そう言ってみたところで、心の深いところで真摯に受け止めない限り、その言葉はなんら活きてはこない。

 

今宵も枕元で、甘くて弱い自分を叱咤するバンカラ共のストームが吹き荒れる。「醒めよ 迷いの夢 醒めよ・・・」と。    

                             旭川リハビリテーション病院副院長

病院職員フォトコンテスト2020 を開催しています

現在1階の内科待合室、外来リハビリ待合室および南病棟階段各階踊り場にて、「旭川リハビリテーション病院フォトコンテスト」の写真を展示しています。

 

9年前に「フォトコンテスト2011」と題し、当院職員から写真を募集したことで始まったこのコンテスト。今回で第10回目となります。写真の展示が始まった当初から患者様・ご家族様からの反響が大きく、診察やリハビリテーションを待つ間に少しでも皆様に楽しんで頂く為に毎年病院職員から募集を行っては写真コンテストを開催し継続しています。

 

風景や動植物など様々な写真、約50点が展示してありますので、外来受診時などにどうぞお楽しみください。

                                                                                                      作業療法士I、理学療法士H

 

 

ドクターKの独りごと 2.「永遠」斎藤和己

かつてソフトバンクに斎藤和巳という選手がいた。入団当初から右肩腱板損傷を繰り返しながらも絶対的エースとして活躍し続けた投手である。彼の忘れられぬ姿がある。2006年10月、日本ハムとのプレーオフ第2ステージの札幌ドーム。

 

北海道民であれば誰もが日本ハムファンであると思う。2004年、ヒルマン監督率いる日本ハムファイターズが新庄選手とともに札幌にやってきた。「1、2、3、信(4)じられなーい!」「札幌ドームを満員にする」「チームを日本一にする」ヒルマン監督や新庄選手の1言1言に我々は大いに盛り上がり、そして「優勝」という夢をもった。そんなチャンスが移転3シーズン目に突如やってきた。2006年10月のプレーオフ。この試合に勝てば日ハムはパリーグ優勝だ!しかし勝負はそう簡単ではなかった。日本ハムのエース八木、ソフトバンクのエース斎藤、両者1点も許さない緊迫した試合展開。そんな9回裏、斎藤投手が一瞬乱れた。1人目の打者、森本選手に四球を与えてしまったのだ。しかしエース斎藤はその後の日ハム打線を抑え2アウトランナー1、2塁。あと1人というところで迎えたバッターは稲葉選手。ネクストバッターボックスには新庄選手。道民の誰もが息を殺してTVにかじりついたシーンであろう。稲葉選手への第2球。バットに当たった打球はセカンドベース右。セカンドフォースプレイか?!のように思えた。がしかし、セカンドベースへのトスがほんのわずかにそれてセーフ、その間に2塁から森本選手が生還!チームとしては25年ぶり、北海道にきてわずか3年で「優勝」という夢を、日本ハムは札幌ドーム、我々の目の前で実現したのだ!この年で引退を声明していた新庄選手をはじめ、みんな抱き合って泣いた。湧き上がる札幌ドーム。鳴りやまない歓喜の渦。長く厳しい冬が始まろうとする10月の北海道で、道産子が最も熱くなった1日だった。

 

喝采の渦のなか、そこだけがブラックホールになったかのようなマウンドの真ん中で、膝をつき崩れ落ちたまま立ち上がることができないソフトバンクのエース斎藤がいた。

 

2004年と2005年のレギュラーシーズン、勝率1位ながらプレーオフで敗退し、日本シリーズにでることができなかったソフトバンクは、2006年こそ!との思いでプレーオフに挑んだに違いない。7月、ソフトバンクの王貞治監督は胃を患い、チームから離れていた。何としても日本シリーズで優勝して王監督を胴上げしたい!ソフトバンクの選手の誰もがそう思ったであろう。中4日で先発に挑んだエース斎藤。彼の肩の状態を考えたチームドクターはまちがいなく反対したはずだ。でもおそらく彼は志願したのだろう、どうしても自分に投げさせてくれと。結果は上述のとおりだ。全身全霊で投げた2時間51分。斎藤投手のガラスの右肩はこの日、砕け散った。後に斎藤投手は当時の様子をこう振り返っている「あのサヨナラ負けから僕の時計は止まっています」。しかしここで敢えて言わせていただきたい。彼の肩はこの日から元には戻らなかったが、この日の斎藤投手の胸に響く姿は永遠に忘れない。

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医師は患者さんの病状説明で厳しい話をしなければならないときがある。自分の言葉の前と後とで病気が急に進行するわけではない。しかし患者さんの心境は話によって崖から突き落とされた気分となる。だから医師は患者さんが病気を受けとめ、前を向いて立ち上がれるよう、細心の注意を払って言葉を選ぶ。そしてここで敢えて言わせていただきたい。たとえ患者さんがどん底の心境となっても、それまでの患者さんの生き方や人格が否定されたわけではけっしてない。病気は深刻かもしれないが、患者さんの生きた軌跡を私は永遠に忘れない。

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余談ではあるが、斎藤投手は引退するまで背番号は「66」であった。お世話になった祖父の葬儀で背番号66のユニフォームを着せたことがあり、「背番号を変えたら天国から見ているじいちゃんが俺だと分からなくなる」ためだ。斎藤投手らしいエピソードだ。

 

                              旭川リハビリテーション病院副院長

ドクターKの独りごと 1. 「復活」上沢直之

2020年6月30日、日本ハムファイターズホームグラウンドである札幌ドームの開幕のマウンドには上沢直之投手が立っていた。左膝骨折から378日ぶりのマウンドにむかう彼の背中に、観客の声援はなかった。新型コロナの影響で無観客での試合となったからである。解説を除いては、テレビから聞こえる音はキャッチャーミットの音と審判の声だけだ。長いリハビリ生活を経て、1年ぶりにマウンドに立った上沢投手の気持ちはどのようなものであったであろうか?復活の初球は150㎞/hのストライクだった。第1球。キャッチャーミットの響き。「ストライーク!」アンパイヤ―の叫び…。初回はなんと3者連続三振…忘れることはないだろう。

 

上沢投手の復帰戦を見ていて、私は元巨人軍の吉村禎章を思っていた。1988年7月6日、札幌円山球場で起きた守備中の大けが。左ヒザ靭帯4本のうち3本を断裂し、更には腓骨神経も損傷。選手生命を脅かすどころか、日常生活ができるのか?というくらいの重症だった。2度の手術を経て1989年9月2日、読売ジャイアンツのホームグラウンドである東京ドーム対ヤクルト戦。7回裏二死三塁の場面で藤田監督から代打が告げられると、東京ドームは割れんばかりの大歓声に包まれた。423日ぶりの打席の結果は二塁ゴロ。それでも吉村選手は一塁へ全速力で走った。観客からの大きな拍手とスタンデイングオベーション。吉村選手も観客も、そしてTVをみている我々も歓喜で涙したものだ。

 

一方で…マウンドに向かう上沢投手の背中に声援はなかった。静まり返った球場。これがコロナ時代の野球観戦なのか…。上沢投手自身、少し寂しさも感じたようだが、それでも「マウンドで投げられたこと自体が本当に楽しかった」と試合後のインタビューでコメントしていた。

 

違和感だらけの野球中継であったが、見ているうちにあることに気が付いた。投手が投げる球種によってこれほどまでにミットの音が変わるのか!1球1球、審判はこんなにも大きな声でカウントを叫んでいるのか!西川選手が送りバントの構えをしたときのバッテリーの空気の変化。4番中田選手に一発がでれば勝ち越しという場面、マウンドに集まるソフトバンク選手らの緊張感。両チームダッグアウトからの声援…。こういった野球観戦もある…と。

 

彼らは今、野球をやって遊んでいるのではない。プロのスポーツ選手として闘っているのだ。この瞬間の最高のパーフォーマンスのために、なによりチームが勝つために、オフシーズンから日々汗を流してきているのだ。常に全力が故に怪我と隣り合わせの、そんな毎日がつらくないはずがない。ましてや怪我からの復帰に選手はどれほどの不安や苛立ちを感じることだろう…。吉村禎章も「現役の17年間、いろいろなことがあったが、振り返ってみたら面白かった」。そう、楽しいとか面白いというのは、困難を克服して振り返ってみてはじめて思うことなのだ。「マウンドで投げられたこと自体が本当に楽しかった」ともすれば軽いのりでとらえられがちな上沢投手のこの言葉が、実はどんなに深く重い言葉であったのかは、試合後のインタビューだけでは決してわかるまい。

 

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「お元気でしたか?」外来診察のはじめに私は患者さんに必ずこの言葉をかける。長いリハビリ期間を経て、がんばって、がんばって、それでももとのように体は動かない。身も心も大変な思いの毎日であるのはよく知っている。でも私は聞かずにはいられないのだ。なぜなら患者さんは、けっして楽しい場所ではない病院という場所に来てくれて、長い診察待ち時間を待たされて、私の言葉に少し戸惑いながら、それでも「元気でした」といってくれる…その笑顔が、私はとても好きだから。

 

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余談ではあるが、上沢投手はケガの手術後に自身のブログでこう記している「今回のことはプレー中に起きたことですし、ピッチャーをやっている以上仕方のないことだと思います。ソト選手(横浜DeNAベイスターズ)の打球は速すぎて見えませんでした笑」「それはソト選手が素晴らしい打者であると同時にそのような打者と対戦できることはピッチャーとして幸せです!これからリハビリ頑張ってまた1軍の舞台で投げれるように頑張ります!」ソト選手は実際にこの年セリーグ打撃・本塁打で2冠王となっている。本物は本物を知る…是非二人の再対戦を見たいものだ。

 

                                                        旭川リハビリテーション病院副院長

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