1. ホーム
  2. ブログ
  3. ドクターKの独りごと;「銅」は「金」と同じ

ブログ

ドクターKの独りごと;「銅」は「金」と同じ

我々は幼い頃から、あらゆる場所で「順位」という物差しに囲まれて生きている。運動会、絵画展、期末テスト、合唱コンクール...。その最たる象徴が、オリンピックなどで授与される「金・銀・銅」のメダルであろう。誰もが疑うことなく、金が1位で、銀が2位、銅が3位であると認識している。この「金」「銀」「銅」は、しかし漢字で書くと面白いことに気が付く。「銅メダルは金メダルと同じ。銀メダルは金メダルより良い」と書くということだ。一見すると負け惜しみのようにも聞こえるが、その裏には、漢字の構造という言葉遊び以外にも、人間の感情を解き明かす深い洞察が隠されている。

いくつかの研究によれば、銅メダリストのほうが銀メダリストよりも幸福度が高いということが言われている。銀メダリストの視線は、常に「あと一歩で届くはずだった金メダル」という上方に向くため、世界2位という偉業にもかかわらず、心には悔しさや敗北感が強く残る。一方で、銅メダリストの視線は「メダルを逃したかもしれない4位」という下方に向く。一歩間違えれば、4位でメダルを逃すところだった。表彰台に登ることができて、本当によかった。彼らにとっての比較対象は「何も得られなかったかもしれない自分」となる。客観的には3位だが、主観的な喜びの量だけで言えば、金メダリストと「同じ」心理的境地に達しているということらしい。

しかし、ここで一つの疑問が浮かぶ。人は「栄光をつかみ取った瞬間」にのみ、最大の幸福があるのだろうか?確かに、頂点に立った瞬間の達成感は甘美であろう。しかしそれは手にした瞬間に過去のものとなり、同時に「守る側」に回るプレッシャーへとなる可能性をはらむ。そう考えると「栄光をつかみ取ったときの達成感」よりも「目標を追いかけている充実感」のほうが、人間をはるかに輝かせるのではないか?

この「追いかける充実感」という視点に立ったとき、「銀メダルは金メダルより良い」という言葉は意味を持ち始める。銀メダリストが味わう悔しさは、もっと強くなるという次へのステップの爆発的な原動力になり得るからだ。

 

このメダリストの幸福度のパラドックスは、単なるスポーツの世界だけの話ではない。我々は、SNSなどのによって常に他人の「金メダル級の瞬間」を画面越しに見せつけられている。誰かの華やかなキャリア、贅沢な旅行、完璧な家庭、幸せな笑顔...。これらを日常的に目にする中で、我々は無意識のうちに銀メダリストのような「上方比較」の罠に陥っている。自分もそれなりの生活をしている(=銀メダル)」はずなのに、「あのひとに比べれば、自分はなんて惨めなのだろう」と。

我々が生きる上で本当に大切なのは、他人が作ったランキングの順位ではなく、自分自身の心がどれだけの熱量と満足感を感じられているかという主観的な真実であろう。本当の精神的な豊かさと真の幸福を得る心の在り方を諭した「足るを知る」という老子の言葉も、「置かれた場所で咲きなさい」という渡辺和子氏の言葉も、それ以上望まないで満足しろということではなく、今あるものに感謝しながら最大限努力しなさいという意味だと思う。

 

金が一番、銀が二番、銅が三番。それはあくまで他人が決めたルール上での順番にすぎない。本当に大切なのは、他人の物差しに惑わされず、自らの意志で目標を追いかけ、そのプロセス自体を楽しむことではないか?どのような位置に立っていても、どのような逆境に置かれても、視点と思求、そして感謝の火を絶やさない限り、我々の人生のメダルはいつでも金以上の輝きを放ち続けるはずである。 旭川リハビリテーション病院副院長