オリンピックは個の極限を競いあうがゆえ、たとえ同じ国であっても心のどこかで否定する…そんな印象をもっていた。しかしミラノ・コルティナは違った。祭典で交わされたのは偽りの笑顔や形式的な握手ではなく、ごく自然なハグや、心からの歓声、そしてレスペクトだった。選手たちは勝敗のさきにあるなにかを見ていた。坂本花織が金メダルの選手を抱きしめ、共に跳ねて喜ぶのを見たときそう感じた。リンクの上には、メダルの色よりもずっと輝くものがあるのだと。
「生きるか死ぬかの覚悟を持って、ここに臨んできた」平野歩夢が自らの限界という壁に挑み続ける姿にも感動した。大会のわずか一ヶ月前、骨盤骨折という致命的な怪我を負い、普通の人間ならベッドの上で天井を眺めて過ごすような時間だったにもかかわらず、車椅子から立ち上り大会に挑んだ。肉体の限界以前に、同じプレイをする精神的恐怖はなかったのだろうか?パイプの縁から空へと高く舞い上がるたび、観客席からは地鳴りのような「AYUMU」コールが沸き起こった。それは勝利を称える声というよりは、一人の人間が死力を尽くして空を飛ぼうとする、その意志に対する深い敬意のようにも聞こえた。 試合後彼は、勝てなかった悔しさを飲み込み、後輩たちの躍進を祝福した。その言葉は、青く澄んだコルテイナの空の中で驚くほど響いた。それは、坂本花織が勝者を抱きしめたあの瞬間と同じ、新しいオリンピック時代を予感させる風景だった。あのときの彼の澄んだまなざしが忘れられない。
「りくりゅう」の二人…彼らが氷の上に描いたのは「信頼」というかたちの物語だった。
フリーの演技を終えた瞬間、氷の上に崩れ落ちた木原。しかし三浦はその肩を優しく抱いた。そこにあったのは、単なるパートナーシップを超えたもっと根源的な「魂の補完」のようなものだったのではなかろうか?二人は互いの欠落を埋め合わせ、一人の人間では決して到達できない高さへ登りつめた。怪我や重圧に追いかけられながらも、二人は決して互いの手を離さなかった。それは坂本花織がリングに描いた連帯とも、平野歩夢が雪山に刻んだ不屈とも、また違う種類の光だった。「(勝つとか負けるとかではなくて)今日は龍一くんのために滑る」二人が見せてくれたのは、自分以外の誰かを心の底から信じ抜くという、今の世界では絶滅しかけているかもしれない、ある種の「誠実さ」のかたちだったように思う。テレビ画面の向こうに我々が目撃したのは、得点によってメダルの色を決めるといった、数字で割り切れる種類のものではなく、競技に対する本来の基本的な精神の変容ではなかったのか?雪上やリンクの上に刻まれたシュプールはもう消えてしまったが、そこで交わされた選手たちの精神の共鳴は消えない。旭川リハビリテーション病院副院長

































